GGROWTH INTELLIGENCE経営に、次の一手を。

vol.16

成長戦略/売上拡大2026.09.10約7分

展示会に出るだけでは売上にならない

戦国 × 世界史 四人の視点

伊達政宗 × 大谷吉継 × エリザベス1世 × トゥーサン・ルーヴェルチュール

海外展示会は、中小企業が海外販路を開くための最初の一手だ——という提言があります。信頼できる現地パートナー、製品の現地ニーズへの適合、顧客の開拓。海外展開を実現した企業が挙げるこの三つを、一度に取りにいける場だからです。ただし「出れば売れる」わけではなく、選定と準備と会期後のフォローを一本の戦略として設計した企業だけが結果を出す、と記事は結びます。今宵の酒場は港町の船宿にあります。お招きしたのは、最高峰の相手に会えたのに一件も通らなかった大名、疑わしい相手を見抜いたうえで手元に置いて失敗した参謀、資本を一切出さずに旗だけを貸した女王、そして署名した合意を紙にされた指導者。四人が語ったのは出展の巧拙ではなく、その一段深いところにある問いでした。

Cast

  • 伊達政宗後発ブランド経営者1567–1636。出羽・陸奥の戦国大名、のち仙台藩初代藩主。天下がほぼ定まった後に頭角を現した後発の立場から、外交と自己演出で存在感を確保した。
  • 大谷吉継共同経営者・盟友1565?–1600。豊臣政権下の武将・奉行。越前敦賀5万石の城主として検地・兵站などの実務を担い、関ヶ原の戦いで西軍に加わり戦死した。生年は永禄8年(1565)説が有力。
  • エリザベス1世分断市場の中庸経営者1533–1603。イングランド女王(在位1558–1603)。宗教的分断のなかで均衡を保ち、民間の商業冒険に王権の信用を貸し出す形で海外進出を後押しした。
  • トゥーサン・ルーヴェルチュール危機・変革の指導者1743?–1803。フランス領サン=ドマング(現ハイチ)の指導者。軍と行政を組織し1801年に憲法を制定したが、翌年の降伏合意ののち捕らえられフランス本土で獄死した。生年は洗礼記録が未発見で諸説がある。

司会

今日の題材は海外展示会です。記事はこう言います——国内市場が縮むなか、中小企業が海外に出る最初の一手は展示会だ。信頼できる現地パートナー、現地ニーズへの適合、顧客開拓という三つを一度に取りにいける。ただし「出れば売れる」ではなく、選定と準備と会期後のフォローを一本の戦略として設計した企業だけが結果を出す、と。皆さんは、外へ出た側です。

伊達政宗

では、いちばん派手に空振りした者から話しましょう。慶長十八年、わたしは船を仕立てて使節を送り出しました。目的は通商です。スペインの王にも、ローマの教皇にも会いました

司会

最高峰の相手ですね。

伊達政宗

ええ。そして通商の話は、一件も通りませんでした。得たのは宣教師の派遣と、ソテロという男の司教任命の話だけです。

司会

会えたのに、決まらなかった。

伊達政宗

ここが要点です。記事に、展示会は意思決定権を持つ者が来ているかで選べとある。もっともです。ただ——いちばん上に会うことと、決められる者に会うことは、同じではない。王も教皇も、わたしの案件を単独では決められなかった。決めていたのは、当時のあの国の対日方針であり、日本から届いていた別の知らせでした。

大谷吉継

会えたことを成果と数える癖は、危ういですな。

伊達政宗

おっしゃるとおり。「誰に会えたか」を目標に置くと、わたしの失敗は成功に見えます。謁見は果たした、記録も残った、書状は今もローマにある。だが売上は一銭も立っていない。

司会

会期後はいかがでした。

伊達政宗

常長が戻ったのは七年後です。その頃には、送り出したこちらの前提が変わっていた。禁教です。常長は帰国の二年後に没し、ソテロは火刑になりました。フォローを怠ったのではありません。フォローすべき土台の側が消えたのです。七年かかる商談を、七年変わらない前提で設計した。そこが誤りでした。

大谷吉継

わたしは相手の見極めの話をします。記事の三大要因の一つ目、信頼できる現地の相手をどう選ぶか。

司会

見誤らないためのコツ、ということでしょうか。

大谷吉継

逆です。わたしは見誤っておりません。関ヶ原の折、寝返りが疑わしい者が手元にいた。京極、朽木といった面々です。わたしはその危うさを承知していた。承知したうえで、戦端が開けば寝返りにくかろうと読んで、手元に置いて連れて行きました

司会

結果は。

大谷吉継

京極は道中で離れて城に籠り、朽木らは当日、横から槍を入れてきました。わが陣が崩れた直接の因です。——申し上げたいのはここです。評価を誤ったのではない。正しく評価して、その評価に従う設計だけを作らなかった。

エリザベス1世

それは相手の問題ではなく、あなたの側の設計の問題だと。

大谷吉継

さよう。そして勘定も、はじめから合っておりませんでした。こちらの奉行衆を全部足して五十万石ほど、相手は単独で二百二十六万石です。危ういと言いながら乗った。海の向こうで「熱心な人だから」「話が早いから」と決める前に、自分がその評価に従えるかを先に決めておくことです。

司会

エリザベス様には、支援する側の話を伺います。記事は、公的支援を単なる費用の補助と見るのは過小評価だと言います。

エリザベス1世

正しい指摘です。千六百年の暮れ、わたくしは東インドへ向かう商人たちの会社に勅許を与えました。王室は、一ポンドも出しておりません。原資はすべて商人の拠出です。

司会

では何を与えたのですか。

エリザベス1世

出したのは十五年の独占と、法人の形と、アチェの王に宛てた紹介状だけです。書簡にはこう書きました——彼と一行を「あなたの王としての保護のもとに」お受けいただきたい、と。船でも金でもない。渡したのは、こちらの信用の裏書きです。

司会

まさに記事の言う、統一ブランドの信頼性という上乗せですね。

エリザベス1世

ただし、旗は無料ではありません。三つ申し上げます。一つ、縛られる。許しなく商えば船も積荷も没収し、半分は王室が取り、身柄は意のままに拘束しました。二つ、跳ね返る。わたくしの旗を掲げた者が海で働けば、それは国の行いと見なされる。船を押さえた一件から禁輸になり、やがて戦になり、決着したのはわたくしの死の翌年です。三つ、引き上げられる。勅許は二年前に告げれば取り消せる約定でした。

トゥーサン・ルーヴェルチュール

——最後の一つを、わたしから続けさせてください。

司会

どうぞ。

トゥーサン・ルーヴェルチュール

旗は貸し手の都合で引き上げられる。あなたはそれを約定に書いた。わたしの場合は、書かれてすらいませんでした。千八百二年、わたしは遠征軍と合意しました。署名し、武器を置いた。その一月余のちに捕らえられ、船で本国へ送られ、要塞の中で死にました。裁判は、一度も開かれませんでした

エリザベス1世

合意は守られなかった、と。

トゥーサン・ルーヴェルチュール

それより重いのです。後に分かったことですが、送り込んだ側の指示には、はじめから我々を本国へ送ることが含まれていた。つまり、あの合意は署名された時点で、履行される予定がなかった。

司会

記事は、会期後二十四時間以内に礼状を出し、見込み度で分けて追いかけよと説きます。

トゥーサン・ルーヴェルチュール

丁寧に追いかけることは正しい。ただし——丁寧さは、相手の意思を変えません。わたしは憲法まで書きました。紙は立派でした。力関係が変わった瞬間に、紙のままになった。合意と同時に、履行させる手段を自分の側に残しておくこと。それがなければ、署名は相手の善意の別名にすぎません。

エリザベス1世

わたくしとあなたは、同じ仕組みの両端におりますね。わたくしは旗を貸して縛った側、あなたは旗を信じて縛られた側です。

トゥーサン・ルーヴェルチュール

ええ。ですから伺いたい。あなたの紹介状を持って現れた商人が、向こうで裏切られたとき、あなたは何をしましたか。

エリザベス1世

……できることは限られておりました。旗は信用を貸しますが、遠い海の向こうで履行を強いる力までは貸せません。

司会

収束は一点でした。四人とも、出展の巧拙を論じておられない。「会えるか」「選べるか」ではなく、「合意したあと、それを履行させる力が自分の側にあるか」へ問いを移された。政宗様は会えたが決まらず、吉継殿は判定が当たったのに従わず、エリザベス様は旗を貸せても履行までは貸せず、トゥーサン様は署名を紙にされた。分かれたのは、その力をどこに置くかです——相手を目の届く場所に置くのか(吉継)、約定に取消条項として書き込むのか(エリザベス)、そもそも相手の善意を前提から外すのか(トゥーサン)。

対談から読み解く、4つの軸

なぜこの四人だったのか。各人がどの論点を担っているかを、人選の設計とあわせて示します。

  • 伊達政宗:後発ブランド経営者

    最高峰の場に出て、最上位の相手に会い、それでも一件も通らなかった当事者。「誰に会えたか」を目標に置くと、この失敗は成功として記録に残る。

    理論: 後発の立場から、外交と自己演出で存在感を確保する

  • 大谷吉継:共同経営者・盟友

    見抜けなかったのではなく、見抜いたうえで従わなかった側。パートナー選定の失敗は、評価の精度ではなく「評価に従う設計」の不在から生まれる。

    理論: 危機を予測し助言する。ただし関係性が自らの判断を上書きする

  • エリザベス1世:分断市場の中庸経営者

    支援する側=旗を貸す当事者。公的支援の本体が金ではなく信用であることを、資本ゼロの勅許が示す。ただし旗は無料ではない。

    理論: 王権の信用を、民間の商業冒険に貸し出す

  • トゥーサン・ルーヴェルチュール:危機・変革の指導者

    合意を反故にされた当事者。丁寧なフォローは相手の意思を変えない。合意と同時に、履行させる手段を自分の側に残せるかを問う。

    理論: 資源も地位もない側から、軍と行政を組み立てる

四人とも出展の巧拙を論じず、「合意したあと、それを履行させる力が自分の側にあるか」へ問いを移した

記事は展示会を「バイヤーとの対話・市場評価・競合分析を同時に完遂する戦略的プラットフォーム」と位置づけ、選定・準備・会期後フォローの設計を説く。四人はその手順そのものには反対しなかったが、全員が一段下の層へ問いを移した。第一に、会えたことはKPIになりえない。政宗の使節はスペイン王と教皇への謁見に成功し、通商要求は全て拒否された。記事の選定基準「意思決定権を持つキーパーソンが来場しているか」に対して、最上位に会うことと、その案件を決められる人に会うことは別である。名刺獲得数や面談件数を目標に置くと、この種の空振りは成功として記録に残る。第二に、フォローの失敗には二種類ある。追いかけなかった失敗と、追いかける土台の側が消えた失敗である。使節は7年かかり、帰国時には送り出した側の前提が禁教で変わっていた。商談のリードタイムが自社・自国の前提の変化速度を超えていないかは、出展前に見るべき別の軸になる。第三に、パートナー選定の失敗は見誤りではなく従わなさから生まれる。吉継は寝返りの危うさを正しく評価したうえで、手元に置けば大丈夫と読んで同行させ、その読みが外れた。評価の精度を上げるより、評価に従う設計を先に決めるほうが効く。第四に、公的支援の本体は金ではなく信用である。東インド会社への勅許で王室は資本を一切出していない。出したのは15年の独占と法人格とアチェ王宛の紹介状だけであり、記事が指摘する「コスト削減ではなく市場参入の成功確率を高める戦略ツール」という読みを、400年前の実例が裏づける。ただし旗には代償が三つ付く。縛られること、旗を掲げた者の行為が貸し手に跳ね返ること、そして2年前の予告で引き上げられることである。そして最後に、記事のロードマップが扱っていない論点が残った。合意が守られなかったときに発動する自分側の手段である。トゥーサンの降伏合意は、後の研究によれば署名された時点で履行される予定がなかった。丁寧なフォローは相手の意思を変えない。初回契約や独占的な現地代理店契約を結ぶ側が最初に設計すべきなのは、合意に至るまでの手順ではなく、合意と同時に履行を担保する手段をどこに置くかである。

学びの読書案内

  • 伊達政宗

    後発の立場から、外交と自己演出で存在感を確保する

    慶長遣欧使節(1613年出帆・1615年にフェリペ3世とパウロ5世に謁見・通商要求は不成立)/仙台開府と城下町の設計(1600年縄張り開始)

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  • 大谷吉継

    危機を予測し助言する。ただし関係性が自らの判断を上書きする

    豊臣政権の奉行職と敦賀の統治・港湾運営/関ヶ原での布陣と、寝返りを疑った武将の同行という判断

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  • エリザベス1世

    王権の信用を、民間の商業冒険に貸し出す

    東インド会社への勅許(1600年12月31日・15年独占・王室出資はゼロ)/フランシス・ドレイクへの私掠特許状と世界周航(1577–1580)/1559年の国教会確立

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  • トゥーサン・ルーヴェルチュール

    資源も地位もない側から、軍と行政を組み立てる

    1801年サン=ドマング憲法の制定と終身総督就任/スペイン側からフランス側への転向(1794年5月18日ゴナイーヴ)

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発言の背景にある出来事

  • 伊達政宗

    「スペインの王にも、ローマの教皇にも会いました」

    慶長遣欧使節(1613年出帆〜1620年帰国)

    伊達政宗は1613年、家臣の支倉常長と宣教師ルイス・ソテロを正使として、サン・フアン・バウティスタ号でヨーロッパへ送り出した。目的はメキシコ経由の直接通商である。一行は1615年1月30日にスペイン王フェリペ3世に、同年11月3日にローマ教皇パウロ5世に謁見した。当時の日本人が到達しうる最上位の相手である。しかし通商に関する要求は全て拒否され、商取引は一件も成立していない。常長の帰国は出帆から7年後の1620年で、その間に国内では禁教が本格化して前提が変わっていた。常長は帰国の2年後に没し、ソテロは1624年に火刑となる。「会えたことと、取れたことは別である」という対談の出発点は、ここから来ている。

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  • 大谷吉継

    「戦端が開けば寝返りにくかろうと読んで、手元に置いて連れて行きました」

    関ヶ原における京極高次・朽木元綱の処遇(1600年)

    大谷吉継は敦賀5万石の城主で、豊臣政権では検地や兵站の実務を担った。注目すべきは、寝返りの可能性を疑っていた武将たちへの対処である。京極高次・朽木元綱らについて、戦端が開いてしまえば寝返りにくくなるだろうと読み、北陸から手元に抱えて同行させた。しかし京極は「一番最後から行く」と言って離脱し大津城に籠城、朽木・脇坂らは決戦当日に横槍を入れ、吉継の陣が崩れる直接の要因となった。敦賀市立博物館館長の外岡慎一郎は、この京極の離脱を「吉継、最大の失敗だったかもしれません」と評している。相手を見誤ったのではなく、危ういと分かったまま横に置いた——この構造が、海外パートナー選定における「評価には従わない」失敗と重なる。

    ↑ 本文の発言に戻る大谷吉継(Wikipedia) ↗

  • エリザベス1世

    「出したのは十五年の独占と、法人の形と、アチェの王に宛てた紹介状だけです」

    東インド会社への勅許(1600年12月31日)

    エリザベス1世は1600年12月31日、ロンドン商人の団体に勅許状を与えた。正式名称は The Governor and Company of Merchants of London Trading into the East Indies。与えられたのは、喜望峰以東からマゼラン海峡以西の海域における15年間の交易独占と法人格、そして航海先の君主に宛てた紹介状である。重要なのは、王室が資本を一切出していないことだ。原資は商人たちの購読金で、初期の払込は30,133ポンド、のちに68,373ポンドに達している。女王が提供したのは資金ではなく「国王の信用」だった。ただしこの旗には代償が付く。無許可の交易者は船と積荷を没収され(半分は王室の取り分)、身柄も拘束された。旗を掲げた者の行為は国家の行為と見なされ、1568年の借款船押収は5年に及ぶ相互禁輸と1585年の開戦を招き、決着は女王の死の翌年(1604年ロンドン条約)まで持ち越された。そして勅許自体、2年前の予告で取り消せるものだった。

    ↑ 本文の発言に戻るイギリス東インド会社(Wikipedia) ↗

  • トゥーサン・ルーヴェルチュール

    「裁判は、一度も開かれませんでした」

    降伏合意から獄死まで(1802年〜1803年)

    トゥーサン・ルーヴェルチュールは、フランス領サン=ドマング(現ハイチ)で軍と行政を組み立て、1801年には憲法を制定して自らを終身総督とした。これに対しナポレオン・ボナパルトはルクレール率いる遠征軍を派遣する。戦闘ののち1802年5月に降伏の合意が成立し、トゥーサンは武器を置いた。しかし6月7日にブリュネの手で捕縛され、8月25日にフランス本土のジュー要塞へ収監、翌1803年4月7日に獄中で死去した。裁判は一度も開かれていない。さらに後の研究では、ボナパルトがルクレールに与えた秘密指示に、当初から黒人将校を本国へ送還することが含まれていたとされる。つまり合意は、署名された時点で履行される予定がなかったことになる。合意そのものが履行を保証しないという彼の視座は、この経験に基づいている。

    ↑ 本文の発言に戻るトゥーサン・ルーヴェルチュール(Wikipedia) ↗

本連載は、各氏の原著・公開されている理論解説に基づき、現代の経営課題に合わせて再構成した架空の対談コンテンツです。発言はGROWTH INTELLIGENCE編集部による創作を含みます。

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