
経費精算の判子が五つ。なぜ五つなのか、もう誰も知らない。記事は、こうした業務を今のまま速くするのが業務改善、そもそも要るのかを問い直してやめるのがBPRだと書きました。今宵は、関所を撤廃した戦国大名、藩という仕組みそのものを廃した明治の政治家、変法で国を作り替えた古代中国の改革者、そして規則がなぜ残り続けるのかを論じた社会学者が語り合います。
Cast
- 信織田信長関所と楽市1534–1582。尾張の戦国大名。上洛後に分国中の関所を撤廃し、加納・安土で楽市を定めた。楽市は六角氏に先例があり、信長はすでにあった仕組みを権限で広げた。比叡山焼き討ちなど、同じ力は殺戮にも向けられた。
- 大大久保利通廃藩置県1830–1878。薩摩出身、明治政府の参議・初代内務卿。1871年の廃藩置県に合議の一員として同意した。佐賀の乱では江藤新平を処断している。
- 商商鞅変法前390頃–前338。戦国時代の秦で孝公に仕え、変法と呼ばれる制度改革を行った。後ろ盾の孝公が亡くなると反対派に追われ、自ら作った法によって逃げ場を失い、処刑された。
- ヴマックス・ヴェーバー支配の社会学1864–1920。ドイツの社会学者・経済学者。人が従う理由を合法的・伝統的・カリスマ的の三つに分け、官僚制を最も合理的な管理の形として論じた。
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司会
たとえば、ある会社の経費精算には、判子が五つ並んでいます。課長、部長、経理、経理部長、役員。なぜ五つなのか、もう誰も知りません。記事は、こうした業務を今のやり方のまま速くするのが「業務改善」、「あるべき姿」から逆算して、そもそも要るのかを問い直し、要らなければやめるのが「BPR」だと書いています。
マックス・ヴェーバー
まず、その五つの判子がなぜ残るのか。人が決まりに従う理由を、私は三つに分けました。規則で決まっているから。昔からそうだから。その人が言うから。判子の五つは、規則に見えます。ところが「なぜ五つなのか」と聞くと、返ってくるのは「前任者がやっていたから」。私は、規則への信頼もまた、結局は慣れ親しまれたものの上に乗っている、と書きました。
司会
規則に見えて、実は「昔からそうだから」で動いている、と。では、判子を足したときの理由は、どこへ行ったのでしょう。
マックス・ヴェーバー
たいていは、あったのです。何年も前に一度不正が起きて、部長が判子を一つ足した、というように。けれど理由のほうが先に忘れられ、判子だけが残る。私はこれを、いつでも脱げるはずの薄い外套が「鋼鉄のように硬い殻」になった、と書きました。脱げると思っていたものが、脱げなくなるのです。
織田信長
関所も同じだ。街道のあちこちに関があり、通るたびに銭を取られる。どれも、どこかの寺や領主が許しを得て置いたものだ。わしは銭を少しずつ安くしたのではない。分国中の関所そのものをやめさせた——と家臣の牛一は書いておる。楽市のほうは、わしが始めたものではない。近江の六角がすでにやっておった。わしがしたのは、前からあったものを、わしの権限で国じゅうに広げたことだ。
司会
判子を五つから三つに減らすのではなく、そもそも要るのかを問う。記事の言う「廃止」ですね。もっとも、その同じ力は、比叡山を焼くことにも向けられました。
大久保利通
では、誰ならやめられるのか。藩を廃したときも、私が一人で決めたのではありません。山県が話を持ち込み、西郷さん、木戸さんと話し合って決めた。そしてその前に、三つの藩から兵を出させ、御親兵を置いていました。逆らう藩が出ても押さえられる裏づけを、先に用意したのです。その晩の日記には、このまま崩れるより「寧ロ大英断ニ出テ」崩れるほうがよい、と書いています。
司会
会社で言えば、判子をやめたあとに不正が起きても困らない仕組み、たとえば事後の抜き打ち点検を、先に用意しておくことにあたりそうです。もっとも、現場からは「判子を外したら不正が増える」という声が必ず出ます。
商鞅
私も法を整えたあと、すぐには出しませんでした。都の南門に木を立て、北門へ移した者に五十金と約束し、本当に払った。上の言うことは嘘ではない、と先に一度見せたのです。ただ、美しい話にしないでいただきたい。同じ法には、隣の家の罪を告げない者を罰する定めがありました。反対の声が止んだのは、皆が納得したからではなく、反対を口にできなくなったからです。
司会
整理します。ヴェーバーさんは判子が理由を忘れて残ること、信長さんは減らすのではなくやめること、大久保さんはやめる前に裏づけを用意すること、商鞅さんは抵抗が止んだ本当の理由。記事の論点に当てはめれば、順に「長年やってきたから続く業務」「ECRSの廃止」「To-Beの先行定義と経営層のコミットメント」「現場の抵抗」です。 ——ただ、こうして並べると、判子の見え方が変わってきます。五つの判子は、どれも最初は誰かが、何かの理由で決めたものでした。
織田信長
だから、やめるのも決めた側の仕事だ。関所を許したのが領主なら、やめさせるのも領主でなければならん。お主らの会社でも、部長が足した判子は、課長には外せまい。現場が怠けているのではない。外す力がないのだ。
マックス・ヴェーバー
そして、その判子がなぜ置かれたのかを思い出せる人がいなくなったとき、決まりは殻になります。
大久保利通
私が日記に書いたのは、大事のために小事は問わない、という覚悟でした。ただ、その小事の中には、職を失った士族も、私が処断した江藤も入っていた。やめる決定は、必ず誰かの暮らしに触れます。
商鞅
そして、新しく作った決まりも、いずれ殻になります。後ろ盾の孝公が亡くなって逃げた先の宿で、身元の証のない客は泊められない、それが商君の法だと断られました。「法を為りて自ら斃るること、一に此に至るか」。自分で作った決まりに、自分が閉じ込められたのです。
司会
記事は「BPRは経営層の強い意思決定なしには機能しない」と書いています。四人の話から、その理由が見えてきます。業務の一つひとつは、過去の誰かが決めたことです。だから、やめるには、それを決めたのと同じ立場の人の決定が要る。現場の改善だけでは届かないのは、そのためでした。 試しに、手元の業務を一つ選んで「これは、誰が、いつ、何のために決めたのか」を一行で書いてみてください。書けない業務があれば、それは誰も覚えていない決定です。そして、新しく決まりを作るときにも、その一行を添えておく。それが、次の殻を作らないための、いちばん手軽な方法かもしれません。
対談から読み解く、4つの軸
なぜこの四人だったのか。各人がどの論点を担っているかを、人選の設計とあわせて示します。
織田信長:関所と楽市
長年続いた仕組みを、改善ではなく廃止として宣言した。ECRSの「廃止」の実例
理論: 関所の撤廃(『信長公記』)と楽市楽座の制札・掟書
大久保利通:廃藩置県
藩という仕組みそのものの廃止に、権限の裏づけ(御親兵)を先に置いて臨んだ。To-Beの先行定義と経営層のコミットメント
理論: 『大久保利通日記』明治4年7月12日条「寧ロ大英断ニ出テ瓦解イタシタランニ如カス」
商鞅:変法
現場の抵抗がどう止んだのかを、美談にせず語る。信じたからではなく、議論そのものが許されなくなったからだった。推進者が背負うリスクも示す
理論: 変法(什伍の制と連坐、軍功爵、県制、度量衡の統一)と徙木の信
マックス・ヴェーバー:支配の社会学
「長年やってきたから」続く業務が残る理由を説明する。形式的な合法性への信仰も、結局は慣れ親しまれたものだった
理論: 支配の三類型/官僚制論/「鋼鉄のように硬い殻」(stahlhartes Gehäuse。英訳でいう「鉄の檻」)
その判子は、誰が、いつ、何のために決めたのか
収束点——経費精算に並ぶ五つの判子を例に、ヴェーバーは理由を忘れて形だけが残ること、信長は減らすのではなくやめること、大久保はやめる前に裏づけ(事後の点検の仕組み)を用意すること、商鞅は抵抗が止んだのは納得ではなく口を閉ざされたからだったことを語った。記事の論点に当てはめれば、長年やってきたから続く業務/ECRSの廃止/To-Beの先行定義と経営層のコミットメント/現場の抵抗にあたる。 言い直し——五つの判子は、どれも最初は誰かが何かの理由で決めたものだった。だから、やめるにはそれを決めたのと同じ立場の人の決定が要る。部長が足した判子は課長には外せない。現場の改善だけでは届かず、BPRに経営層の意思決定が欠かせないのはこのためである。 手元で試せること——業務を一つ選び、「誰が、いつ、何のために決めたのか」を一行で書いてみる。書けない業務は、誰も覚えていない決定である。新しく決まりを作るときにもその一行を添えておけば、次の殻を作らずに済む。
学びの読書案内
織田信長
関所の撤廃(『信長公記』)と楽市楽座の制札・掟書
太田牛一『信長公記』、加納宛制札(1568)、安土山下町中掟書(1577)
大久保利通
『大久保利通日記』明治4年7月12日条「寧ロ大英断ニ出テ瓦解イタシタランニ如カス」
『大久保利通日記』(日本史籍協会叢書、1927)
商鞅
変法(什伍の制と連坐、軍功爵、県制、度量衡の統一)と徙木の信
司馬遷『史記』巻六十八 商君列伝
マックス・ヴェーバー
支配の三類型/官僚制論/「鋼鉄のように硬い殻」(stahlhartes Gehäuse。英訳でいう「鉄の檻」)
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1904–05/1920)、「正当的支配の三つの純粋類型」(1922)
発言の背景にある出来事
織田信長
「近江の六角がすでにやっておった」
楽市は、信長の発明ではなかった
楽市の早い例は、1549年に近江の六角氏が観音寺城下の石寺新市に出したものとされる。信長の1567年の加納宛制札も、すでにあった楽市場の特権を保証したものだった。翌1568年の制札で「楽市楽座」の語が現れ、1577年の安土山下町中掟書では城下全体を楽市とした。「楽座」を座の解体ではなく座役銭の免除と読む研究もある。関所の撤廃は、家臣の太田牛一が『信長公記』に記している。
大久保利通
「山県が話を持ち込み」
廃藩置県を決めた、7月の合議
1869年の版籍奉還で土地と人民は形式上朝廷に返されたが、藩は残り、旧藩主が知藩事として残った。1871年2月、薩長土の三藩から兵を出させて御親兵を置いた。大久保の日記によれば、7月8日に山県有朋から廃藩の提案が持ち込まれ、西郷・木戸らと合議のうえ、7月14日に廃藩置県の詔が出た。7月12日の日記には、このまま崩れるよりは大英断に出て崩れるほうがよい、という趣旨の覚悟が記されている。
商鞅
「都の南門に木を立て」
徙木の信と、その隣にあった法
法令を整えた商鞅は、民に信じてもらえないことを恐れて、都の南門に三丈の木を立て、北門へ移した者に十金を与えると告げた。誰も動かないので五十金に上げ、移した一人に実際に払って、欺かないことを示した(『史記』商君列伝)。同じ法には、罪を告げない者を罰する連坐の規定があった。太子が法を犯したときは守り役を罰し、法を称えに来た者まで辺境へ移した。後ろ盾を失って逃げた先の宿で、身元の証のない客は泊められないのが商君の法だと断られ、「法を為りて自ら斃るること、一に此に至るか」と嘆いたと記される。
本連載は、各氏の原著・公開されている理論解説に基づき、現代の経営課題に合わせて再構成した架空の対談コンテンツです。発言はGROWTH INTELLIGENCE編集部による創作を含みます。
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