
部員30人の営業部。期初に立てた目標は12項目で、期末の達成率はすべて100%。ところが売上は3年間、横ばいのまま。記事は、OKRの達成度を賞与や昇格に結びつけると、社員は確実に届く目標しか書かなくなる、と書きました。今宵は、実力より先に世界一を掲げた創業者、採算を全員に見せた経営者、人が背伸びをする条件を考えた心理学者、そして獄中で「志を立てよ」と書いた幕末の教育者が語り合います。
今宵の賢人たち
- 本本田宗一郎先に到達点を掲げる1906–1991。本田技研工業の創業者。町の修理工場から出発し、二輪車、のちに四輪車のメーカーを築いた。技術へのこだわりが経営判断とぶつかる場面もあった。
- 稲稲盛和夫数字は見せ、報酬は分ける1932–2022。京セラと第二電電(現KDDI)の創業者。経営破綻した日本航空の再建にもあたった。小さな組ごとに採算を見る「アメーバ経営」で知られる。長時間労働や精神主義への批判もある。
- マアブラハム・マズロー安全か、成長か1908–1970。アメリカの心理学者。人の欲求を段階で捉える考え方を示し、人間性心理学の中心人物となった。実証の弱さや文化的な偏りへの批判がある。
- 松吉田松陰志は本人が立てる1830–1859。長州藩士、思想家・教育者。萩の松下村塾で、身分を問わず若者を教えた。安政の大獄で処刑された。老中の襲撃を計画するなど、過激な行動の面もあった。
対談本編
実線の下線↗は元記事の該当箇所(別タブ)、点線の下線は下の「発言の背景にある出来事」へ移動します。
司会
ある会社の営業部を思い浮かべてください。部員は30人。期初に立てた目標は12項目で、期末の達成率はすべて100%でした。ところが売上は3年間、横ばいです。記事は、OKRの達成度を賞与や昇格に結びつけると、社員は確実に届く目標しか書かなくなる、と述べています。まず、高い目標を掲げた側の話から伺います。
本田宗一郎
1952年、うちは資本金600万円の会社でした。その年に、4億5,000万円ぶんの工作機械を外国から買うと決めた。社内報には、世界一であって初めて日本一になれる、と書きました。54年の3月には、マン島のレースに来年出る、という宣言も出しています。
司会
結果はどうでしたか。
本田宗一郎
その年の6月に現地を見に行って、青くなりました。こちらは排気量1リットルあたり100馬力を考えていたのに、向こうは150馬力級で走っている。初めて出られたのは宣言から5年後、勝ったのは7年後です。期日で言えば、まるで届いていない。
司会
営業部の12項目で言えば、達成率が100%にならない年が何年も続いた目標ですね。記事は、OKRでは6〜7割の達成で成功とみなすよう、目標を高く置くと書いています。では、なぜ30人は届く目標しか書かないのでしょうか。
アブラハム・マズロー
心理学者として言えることは1つです。私は1943年の論文で人の欲求を並べましたが、固定した順序ではない、とも断りました。あの三角形の図も、私が描いたものではありません。ただ、安全が脅かされていると感じる人は、成長よりも安全のほうを選びやすい。これは私が繰り返し書いたことです。
司会
賞与が減るかもしれない場面で書く目標は、安全のための目標になる、ということですね。記事はもう1つ、全社の目標を部門、課、個人へと機械的に割り振ると、従来のノルマ配分と同じになる、とも指摘しています。
吉田松陰
私は獄中で、従弟の元服の祝いに7か条を書いて贈りました。その結びに「立志以為萬事之源」、志を立てることがすべての源だ、と書いています。のちに8畳一間で塾を開きましたが、藩の学校は武士の子しか入れなかった。私の塾では身分を問いませんでした。志は、本人が立てるものです。上から配るものではありません。
司会
12項目が上から配られたものなら、それは志ではなく割り当てだ、と。記事も、上位の目標は方向だけを示し、チームが自分で「何で貢献するか」を提案する形を勧めています。
稲盛和夫
私は別の角度から申します。京セラでは1965年に、全社共通の時間当り採算表を作り、どの組がどれだけ稼いだかを全員に見せました。しかし、年間の計画を達成した組への報奨は、賞状とビール券くらいのものです。短い期間の成果で、報酬に大きな差はつけませんでした。
司会
数字は全員に見せるが、目先の報酬にはつなげない。記事の「評価や報酬と切り離す」に重なります。
稲盛和夫
ただ、お待ちください。「切り離す」という言葉には引っかかります。目標に届かなくても、必死にやった人にはそれなりに報いなければ、あとで誰も頑張らなくなる。私はそう考えてきました。長い目で見た実績は、昇給や昇格に反映させています。何も見ない、ということではないのです。
司会
届かなければ見てもらえないのなら、やはり誰も高い目標を書かない。本田さん、届かなかった5年間はどうでしたか。
本田宗一郎
レースはやめませんでした。6月の視察で、差が50馬力あるとわかった。わかったから、次に何を詰めるかが決まったんです。初めて出た年は6位、7位、8位でした。勝ってはいないが、どこまで来たかは誰の目にも見えた。
アブラハム・マズロー
稲盛さんの話は、私の言う安全と食い違いません。人を縮こまらせるのは、届かなければ罰を受ける、という見通しです。どこまで来たかを見てもらえることは、脅しにはなりません。
司会
整理します。本田さんは実力より先に到達点を掲げ、マズローさんは罰の見通しが目標を低くすると言い、松陰先生は志は本人が立てるものだと言い、稲盛さんは数字を見せることと目先の報酬を分けました。記事の論点では順に、「6〜7割で成功とする高い目標」「評価との連動」「目標の下ろし過ぎ」「処遇は別に評価する」に当たります。 ——ただ、こうして並べると、記事が「評価と切り離す」と呼んでいるものは、評価をやめることではなさそうです。
稲盛和夫
切り離すのは、届いた割合と目先の賞与です。挑んだ人に報いることまで、やめるのではありません。
本田宗一郎
届かなかった年に、何がどれだけ足りなかったかが言える。そういう目標なら、外れても次が決まります。
吉田松陰
その前に、誰の志なのかです。配られた12項目を何で測っても、測られるのは志ではありません。
アブラハム・マズロー
人が背伸びをするのは、背伸びして転んでも居場所がある、と思えるときです。
司会
記事は、分かれ目を「OKRの達成度を賞与や昇格に使わないと言い切れるか」に置いています。4人の話を聞くと、言い切る中身は「見ない」ではありません。届いた割合では裁かない。その代わり、どこまで来たかは必ず見る。この2つを組にした約束です。営業部の12項目がすべて100%なのは、30人が怠けているからではなく、その約束がまだないからでしょう。 試しに、来期の目標を1つ選んで、こう書いてみてください。「達成率が6割でも賞与は下げない。代わりに四半期ごとに、どこまで来たかを一緒に確かめる」。これを自分の名前で書けるかどうかです。書けない目標は、OKRにしないほうがよい目標です。
対談から読み解く、4つの軸
なぜこの四人だったのか。各人がどの論点を担っているかを、人選の設計とあわせて示します。
本田宗一郎:先に到達点を掲げる
資本金600万円の会社が世界一を掲げ、マン島のレースへの出場を宣言した。期日には届かなかったが、やめなかった。6〜7割の達成で成功とする高い目標の、実際の姿
理論: 実力が伴う前に到達点を外へ示す/マン島TTレース出場宣言(1954年)
稲盛和夫:数字は見せ、報酬は分ける
採算を全員に見せながら、短い期間の成果を報酬に直結させなかった。「評価と切り離す」の中身を、切り離す側の経営者として問い直す
理論: アメーバ経営/時間当り採算
アブラハム・マズロー:安全か、成長か
罰を受ける見通しがあると、人は成長より安全を選びやすい。評価に連動した目標が低く書かれる理由を、心理学の側から支える
理論: 欲求の階層(1943年。本人は「固定した順序ではない」と断っている)
吉田松陰:志は本人が立てる
目標は上から配るものではなく、本人が立てるもの。全社目標を機械的に割り振る「下ろし過ぎ」への、いちばん古い反論
理論: 『士規七則』の結び「立志以為萬事之源」
「達成率が6割でも賞与は下げない」と、自分の名前で書けるか
収束点——12項目すべてが100%なのに売上が伸びない営業部を例に、本田は実力より先に到達点を掲げたこと、マズローは罰の見通しが目標を低くすること、松陰は志は本人が立てるものであること、稲盛は数字を見せることと目先の報酬を分けたことを語った。記事の論点に当てはめれば、6〜7割で成功とする高い目標/評価との連動/目標の下ろし過ぎ/処遇は別に評価する、に当たる。稲盛は「切り離す」という言葉に異を唱えた——届かなくても必死にやった人に報いなければ、誰も頑張らなくなる。4人を並べると、切り離すのは評価そのものではなく、「届いた割合」という物差しであることが見えてくる。届いた割合では裁かない。その代わり、どこまで来たかは必ず見る。この2つを組にした約束があって初めて、背伸びした目標が書かれる。
学びの読書案内
本田宗一郎
実力が伴う前に到達点を外へ示す/マン島TTレース出場宣言(1954年)
Honda 社史『語り継ぎたいこと』
稲盛和夫
アメーバ経営/時間当り採算
『アメーバ経営』(2006)
アブラハム・マズロー
欲求の階層(1943年。本人は「固定した順序ではない」と断っている)
『人間性の心理学』(Motivation and Personality, 1954)
吉田松陰
『士規七則』の結び「立志以為萬事之源」
『士規七則』(1855)
発言の背景にある出来事
本田宗一郎
「マン島のレースに来年出る、という宣言」
マン島TTレースの出場宣言と、5年後の初出場
1954年3月20日、本田技研工業は英国マン島のTTレースに出場すると宣言した(文案を書いたのは副社長の藤沢武夫と公式社史が記している)。同年6月に本田が現地を視察すると、排気量1リットルあたり100馬力という想定に対し、欧州勢は150馬力級で走っていた。初出場は宣言から5年後の1959年で、125ccクラスで6・7・8位に入りチーム賞を得た。優勝は1961年で、125ccと250ccの両クラスで1位から5位を占めた。
稲盛和夫
「全社共通の時間当り採算表」
時間当り採算表と、賞状とビール券
京セラでは1965年4月に、全社共通の時間当り採算表ができた。小さな組(アメーバ)ごとに、稼いだ付加価値を総労働時間で割って示す表である。研究者の報告によれば、年間計画を達成したアメーバへの報奨は賞状とビール券などにとどまった。稲盛は著書で、短期の成果で報酬に極端な差をつけず、長期の実績は昇給・賞与・昇格に反映すると述べている(研究者による引用を通じて確認)。
アブラハム・マズロー
「あの三角形の図も、私が描いたものではありません」
ピラミッドの図は誰が描いたか
マズローは1943年の論文で人の欲求を段階で並べたが、順序は固定ではないと自ら断り、平均的な人は生理的欲求が85%、安全が70%、愛が50%、承認が40%、自己実現が10%というふうに同時に部分的に満たされている、という例を挙げた。よく知られたピラミッドの図は本人の著述には見当たらず、1960年に経営コンサルタントが雑誌記事に描いたものが最初とされる(Bridgman, Cummings & Ballard, 2019)。
吉田松陰
「従弟の元服の祝いに7か条を書いて贈りました」
『士規七則』と、8畳一間の塾
安政2年(1855)の正月、松陰は萩の野山獄で、従弟の玉木彦介の元服の祝いに『士規七則』を書いて贈った。結びに「立志以為萬事之源」(志を立てることがすべての源)とある。出獄後の安政4年(1857)11月、実家の小屋を直した8畳一間で塾を開き、翌年3月に10畳半を増築した。藩校の明倫館は士分の子弟に限られていたが、松陰の塾は身分を問わなかった。塾舎で教えた期間は約1年1か月で、塾生の数は名簿が残っておらず、数え方によって50人から92人まで幅がある。
本連載は、各氏の原著・公開されている理論解説に基づき、現代の経営課題に合わせて再構成した架空の対談コンテンツです。発言はGROWTH INTELLIGENCE編集部による創作を含みます。
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