
72歳の社長の金属加工会社を、取引先の中堅メーカーが引き受ける。そのメーカーは去年、クラウドの会社も買っている。後継者のいない中小企業が大手の傘下に入る。製造業がIT企業を買って人と技術を一気に手に入れる。ファンドが伸び悩む会社を買って立て直す。記事は製造業のM&Aを三つのパターンに分けました。今宵は、武田の家臣団を丸ごと迎え入れた戦国大名、一代で海運を築いた明治の創業者、帝国を広げきった古代の王、そして企業の成長を研究した経済学者が、同じ卓につきます。
Cast
- 家徳川家康人ごと迎える1543–1616。江戸幕府初代将軍。1582年、滅亡した武田家の旧臣に衆ごとの起請文を出させ、衆を崩さずに若い井伊直政へ預けた。
- ペエディス・ペンローズ企業成長論1914–1996。米国生まれで英国などで教えた経済学者。企業を資源の集まりと捉え、成長の速さは既存の経営陣の余力が制約するとした。
- アアレクサンドロス3世急拡大の王前356–前323。マケドニア王。ギリシアからインダス河畔に及ぶ版図を築いたが、後継者を定めないまま死去し、帝国は将軍たちの争いで分裂した。
- 岩岩崎弥太郎創業と承継1835–1885。三菱の創業者。海運で急成長し、1875年の会社規則で「一家の事業」「社長の特裁」を定めた。長崎造船所の払下げと高島炭坑の買収は、後を継いだ弟・弥之助の判断だった。
実線の下線↗は元記事の該当箇所(別タブ)、点線の下線は下の「発言の背景にある出来事」へ移動します。
司会
製造業の後継者不在率は五三・七パーセント。たとえば、従業員四十人の金属加工の会社。社長は七十二歳で、子どもは継がないと言っている。そこへ長年の取引先の中堅メーカーが「うちで引き受けましょう」と申し出た。そのメーカーは去年、クラウドの会社も一社買っています。記事が挙げるM&Aの三つのパターンのうち、二つがこの一つの場面に入っています。
徳川家康
武田の家が滅びたあと、私はその家臣を大勢迎えました。一人ずつ召し抱えたのではありません。衆という組ごとに誓いの紙を出させた。そして衆をばらさずに、二十二歳の井伊直政へそのまま預け、直政の脇には、私のそばで長く働いた者を付けました。
司会
金属加工の会社で言えば、職人の班をばらして本社の工場に散らすのではなく、班のまま誰か一人に預ける。その人の横に、本社の古株を一人付ける、ということですね。
徳川家康
人は迎え入れられます。ただ、どこに置くか、誰に預けるかを先に決めておかないと、人はすぐに散ります。
アレクサンドロス3世
私は、それを決めずに進んだ側です。征服した国の者を役人に残し、宮廷の作法まで取り入れ、婚礼まで開いて一つにしようとした。けれどオピスで古参の兵が騒いだとき、私は叱りつけるしかなかった。そう記録されています。取り込む速さに、預ける仕組みが追いつかなかったのです。
エディス・ペンローズ
去年買ったクラウドの会社が、まさにそれかもしれません。担当の役員を決めずに、本社の皆が少しずつ口を出していませんか。会社が新しい人や事業を受け入れられる量は、社内で経験を積んだ経営陣の手がどれだけ空いているかで決まります。来月から、その役員に町工場も見てもらえる時間があるのか。「経験そのものは決して移転できない」。買っても、動かす人の時間までは買えないのです。
司会
記事の三つ目の誤解、「IT企業を買えばDXは完了する」につながりますね。売る側の社長はどうでしょう。
岩崎弥太郎
私は会社の規則の冒頭に「その実全く一家の事業にして」と書き、何事も社長が決めると定めました。ところが私が死んで、弟の弥之助が継いだ。長崎の造船所を国から買い取ったのは、私ではなく弟です。高島の炭坑も、渋る私を、弟が数字で説き伏せて買いました。七十二歳の社長がすべてを決めてきた会社なら、買い手から見て、預ける相手が社長一人しかいない。そこが一番の心配のはずです。
司会
整理します。家康さんは班のまま預けて脇に古株を付けること、アレクサンドロスさんは預ける仕組みが追いつかなかったこと、ペンローズさんは買っても動かす人の時間までは買えないこと、岩崎さんは社長一人に預けてきた会社の弱さ。記事の論点に当てはめれば、順に「②人材・技術の取り込み」「誤解③ 買えば完了する」「PMIの前提」「①後継者問題」です。 ——ただ、並べてみると、三つのパターンは同じことを問われているように見えてきます。
エディス・ペンローズ
三つとも、手に入れたものを誰に預けるか、という問いです。後継者のいない会社は、預け先が社長一人しかない会社。IT企業を買う会社は、預け先を用意できるかを問われる。ファンドは、預け先そのものを外から連れてくる。
徳川家康
直政がいなければ、武田の衆は私の兵にはならなかった。
アレクサンドロス3世
私は最後まで、帝国を誰に預けるかを決めませんでした。死の床で問われて「最も強い者に」と答えた、と伝わっています。そして四十年、将軍たちが争った。
岩崎弥太郎
売る側の社長にも宿題があります。自分がいなくても回る仕事を、一つでも作っておくことです。
司会
記事は「買収目的の明確化がPMI成功の前提」と書いています。四人の話から、目的が要る理由が見えてきます。目的が決まれば、誰に預けるかが決まるからです。 試しに、買う側なら「買ったものを預ける人の名前」を一人、紙に書いてみてください。書けなければ、まだ買う時期ではないのかもしれません。売る側なら「社長がいなくても回る仕事」を一つ書いてみてください。後継者不在率五三・七パーセントは、買える会社の数というより、その一行が書けない会社の数なのかもしれません。
対談から読み解く、4つの軸
なぜこの四人だったのか。各人がどの論点を担っているかを、人選の設計とあわせて示します。
徳川家康:人ごと迎える
取り込んだ人材を、どこに・誰に預けるかを先に決めた。人と技術を丸ごと取り込む買収(パターン②)とPMIの原型
理論: 武田旧臣の衆単位での召し抱えと、井伊直政への付属(いわゆる赤備え)
エディス・ペンローズ:企業成長論
家康とアレクサンドロスの違いを理屈で説明する。会社が新しい人や事業を受け入れられる量は、経験を積んだ経営陣の手の空き具合で決まる
理論: ペンローズ効果(経営者用役の制約)/買収による成長も既存資源の制約から完全には逃れられない
アレクサンドロス3世:急拡大の王
預け先を作らずに取り込んだ側。「IT企業を買えばDXは完了する」という誤解の、古代の反面教師
理論: 被統合側の人材登用と統合の試み(跪拝礼・スーサの合同結婚式)、その限界
岩崎弥太郎:創業と承継
買う判断をしたのは創業者ではなく、引き受ける経営能力を持った後継者だった。後継者問題(パターン①)と再生(パターン③)をつなぐ
理論: 三菱汽船会社規則(1875)の「社長の特裁」
買う前に、預ける人の名前を一人書けるか
収束点——72歳の社長の金属加工会社を、取引先の中堅メーカーが引き受ける場面を例に、家康は職人の班をばらさず一人に預けて脇に古株を付けること、アレクサンドロスは取り込む速さに預ける仕組みが追いつかなかったこと、ペンローズは買っても動かす人の時間までは買えないこと、岩崎は社長一人に預けてきた会社の弱さを語った。記事の論点に当てはめれば、人材・技術の取り込み/買えば完了するという誤解/PMIの前提/後継者問題にあたる。 言い直し——三つのパターンは、どれも手に入れたものを誰に預けるかという一つの問いだった。目的が決まれば預ける人が決まる。記事の「明確な買収目的がPMI成功の前提」は、ここに理由がある。 手元で試せること——買う側は、買ったものを預ける人の名前を一人書いてみる。書けなければ、まだ買う時期ではない。売る側は、社長がいなくても回る仕事を一つ書いてみる。後継者不在率53.7%は、その一行が書けない会社の数なのかもしれない。
学びの読書案内
徳川家康
武田旧臣の衆単位での召し抱えと、井伊直政への付属(いわゆる赤備え)
天正壬午の乱と武田旧臣の起請文(写本が内閣文庫などに伝わる)
エディス・ペンローズ
ペンローズ効果(経営者用役の制約)/買収による成長も既存資源の制約から完全には逃れられない
『企業成長の理論』(The Theory of the Growth of the Firm, 1959)
アレクサンドロス3世
被統合側の人材登用と統合の試み(跪拝礼・スーサの合同結婚式)、その限界
アッリアノス『アレクサンドロス東征記』(後代の史料)
岩崎弥太郎
三菱汽船会社規則(1875)の「社長の特裁」
三菱史料館「岩崎彌太郎物語」「岩崎彌之助物語」
発言の背景にある出来事
徳川家康
「衆という組ごとに誓いの紙を出させた」
天正壬午の乱と、武田旧臣の起請文
1582年に武田家が滅び、本能寺の変のあと、その旧領をめぐって徳川と北条が争った(天正壬午の乱)。家康は臣従した武田の旧臣から、衆(グループ)単位で起請文を提出させた。国立公文書館の解説では約800名・28の衆とされる(原本は現存せず写本が伝わる)。旧臣の一部は22歳の井伊直政に付けられ、山県昌景の赤備えを継いだ。付けた人数は後年の編纂物によって異なるため、本文では数を挙げていない。
アレクサンドロス3世
「オピスで古参の兵が騒いだとき」
オピスの騒動と、後継者戦争
前324年、アレクサンドロスはペルシアの娘たちとの合同結婚式をスーサで開き、統合を進めた。同じ年、オピスで古参のマケドニア兵の除隊を告げると兵たちが反発し、王は演説で彼らを叱責した(アッリアノス『東征記』7巻)。翌年、正式な後継者を定めないまま死去。臨終に後継を問われて「最も強い者に」と答えたと伝わる(異伝あり)。その後、将軍たちの後継者戦争が約40年続いた。本文の発言はいずれも後代の史料に基づき、本人の逐語ではない。
岩崎弥太郎
「長崎の造船所を国から買い取ったのは、私ではなく弟です」
長崎造船所の貸与と払下げ
1884年、工部省の長崎造船局を三菱に貸し下げることが決まった。社長は弥太郎だったが、根回しを担ったのは弟の弥之助らだった。弥太郎は1885年2月に死去。1887年6月、社長を継いだ岩崎弥之助の申し出により、造船所は45万9千円で払い下げられた。高島炭坑の買収(1881)も、渋る弥太郎を弥之助が埋蔵量と収支の数字で説いて進めた案件である。
本連載は、各氏の原著・公開されている理論解説に基づき、現代の経営課題に合わせて再構成した架空の対談コンテンツです。発言はGROWTH INTELLIGENCE編集部による創作を含みます。
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