GGROWTH INTELLIGENCE経営に、次の一手を。

vol.27

経営基盤/業務改革2026.10.06約5分

リスクマネジメントとBCPは、何から始めるか

リスクを知るとは、手放す順番を決めておくこと

後藤新平 × ダニエル・カーネマン × 勝海舟 × アルフレッド大王

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従業員八十人の金属部品メーカー。ある夜、隣の塗装場から火が出て、主力のプレス機が一台止まった。翌朝、得意先三社から同時に電話が鳴る。記事は、事前の備えがなかったニトリと、工場火災から三か月で完全復旧したルネサスを比べ、「リスクを知らなかった」では済まない時代だと書きました。今宵は、震災の五日後に復興計画を出した政治家、人の判断の偏りを研究した心理学者、江戸の明け渡しの席についた幕臣、そして奇襲で国を追われてから守りを作り直した王が語り合います。

Cast

  • 後後藤新平平時の図面1857–1929。医師出身の政治家。台湾総督府民政長官、満鉄初代総裁、東京市長、内務大臣・帝都復興院総裁。台湾統治では住民の抵抗を武力で抑えた側面もある。
  • カダニエル・カーネマン判断の偏り1934–2024。心理学者。2002年ノーベル経済学賞。人の判断の偏りを研究し、行動経済学の基礎を築いた。
  • 勝勝海舟決裂の手順1823–1899。幕臣。軍艦奉行・陸軍総裁。咸臨丸で渡米し、神戸海軍操練所で人を育てた。江戸の明け渡しで西郷隆盛と会談した。
  • アアルフレッド大王事後から事前へ849–899。ウェセックス王。ヴァイキングの侵攻を退け、要塞網と交代制の軍役を整えた。のちのイングランドの基礎を作ったとされる。

実線の下線↗は元記事の該当箇所(別タブ)、点線の下線は下の「発言の背景にある出来事」へ移動します。

司会

従業員八十人の金属部品メーカーを思い浮かべてください。主力の第一工場にはプレス機が二台、得意先は自動車部品メーカーが三社。ある夜、隣の塗装場から火が出て、プレス機が一台止まりました。翌朝、三社から同時に電話が鳴ります。記事は、事前の備えがなかったニトリと、工場火災から三か月で完全復旧したルネサスを比べ、「リスクを知らなかった」では済まない、と書いています。

ダニエル・カーネマン

まず、なぜ「知らなかった」が起きるのか。人は、目の前にある情報だけで筋の通った話を組み立てます。私はこれを "What you see is all there is"、見えているものがすべて、と名づけました。一覧に載っていない危険は、危険として感じられないのです。

司会

ニトリの有価証券報告書では、事前のリスク項目は五つで、品質の欄はありませんでした。事が起きてから十一に増えています。

ダニエル・カーネマン

だから私は、ゲーリー・クラインの方法を勧めました。「一年後、この計画は大失敗に終わった。何が起きたか書いてください」と先に尋ねる。この方法のいちばんの利点は、疑いを口にしてよいことにする点です。

アルフレッド大王

私は、知らなかった側から始めた王です。真冬の祝祭のころ、チッペナムにいたところをデーン人に急襲され、わずかな供と森と沼地へ逃れました。アセルニーに砦を築き、立て直して、エディントンで勝った。そのあとで、兵を二つに分けたと年代記は記しています。常に半分は家にいて、半分が出る。要塞の守りは別に置く。

司会

全員を出さない、と先に決めておいたわけですね。工場で言えば、止まったときに誰を復旧に回し、誰を通常の仕事に残すか。

アルフレッド大王

ただ、正直に申し上げます。命じた要塞の中には、着工されないまま、あるいは未完成のまま残ったものがあったと、私の伝記を書いたアッサーが記しています。従わなかった者は、敵が来てから悔やんだ、と。備えは、命じれば一斉に整うものではありません。

後藤新平

私は関東大震災の五日後に、閣議へ「帝都復興ノ議」を出しました。「理想的帝都建設ノ為真ニ絶好ノ機会ナリ」と書いた。五日で出せたのは、二年前、東京市長のときに東京を作り替える計画を描いていたからです。もっとも、あれは地震に備えた計画ではありません。平時に描いた図面が、たまたま危機に使えたのです。

司会

ただ、予算は大きく削られました。

後藤新平

最初の内務省の案は四十億円あまり。議会を通ったのは四億七千万円足らずでした。それから、危機を好機と見る私の癖は、台湾の統治では住民の犠牲の上に働いたこともあります。美談にはしないでいただきたい。

勝海舟

江戸の明け渡しの話をしましょう。西郷と会ったのは三月の十三日と十四日で、初日は決まらず翌日へ持ち越しました。その三日前、私は日記に、願いが聞き入れられず攻めてくるなら、町を焼いて進軍を止めるほかない、と書いています。後になって私は、その備えがあったから席で引かずにすんだ、と振り返りました。ただ、その備えとは、江戸の町を焼くことでした。

司会

整理します。カーネマンさんは見えていないものは一覧に載らないこと、アルフレッドさんは事後から事前へ移ったこと、後藤さんは平時の図面が危機に使えたこと、勝さんは決裂したときの手順を先に決めていたこと。記事に当てはめれば、順に「リスクの特定と同業ベンチマーク」「ニトリとルネサスの差」「BCPの事前整備」「復旧の優先順位」です。 ——ただ、こうして並べると、「リスクを知っている」の意味が変わってきます。

勝海舟

私が先に決めていたのは、守るものではなく、手放すものでした。

アルフレッド大王

私が決めたのは、出す半分と、残す半分です。

後藤新平

図面がなければ、何を先に建て直すかを、五日では選べなかったでしょう。

ダニエル・カーネマン

ロヴァロとの論文で、外部視点を "essentially statistical and comparative"、統計的で比較的なもの、と書きました。似た案件の集まりで、何が、何回起き、どれだけ長引いたかを見るのです。

司会

記事が勧める同業他社の有報も、リスクの名前を拾うだけでなく、同業で何件起き、何か月止まったかまで数えると、カーネマンさんの言う外部視点に近づきそうです。 記事は、事前に把握・分析・対策していれば損害を減らせると書いています。四人の話から見えるのは、その「把握」の中身です。リスクを知っているとは、一覧に名前があることではなく、それが起きたときに何を手放し、何を最後まで守るかを、平時に決めてあることでした。ルネサスが火災の月のうちに「六月中」と言えたのも、記事の言う復旧の優先順位が先にあったからだと読めます。 試しに、主力の設備が一つ止まったときに、納期を待ってもらう得意先と、最後まで守る得意先を、一行ずつ書いてみてください。書けなければ、そのリスクはまだ「知っている」だけで、「決めて」はいません。

対談から読み解く、4つの軸

なぜこの四人だったのか。各人がどの論点を担っているかを、人選の設計とあわせて示します。

  • 後藤新平:平時の図面

    震災の五日後に復興案を出せたのは、二年前に東京市長として描いた改造計画があったから。BCPの事前整備の先例

    理論: 平時の都市改造計画(いわゆる8億円計画)を危機の復興計画に転用

  • ダニエル・カーネマン:判断の偏り

    一覧に載らない危険は、危険として感じられない。リスクの特定が漏れる理由と、同業他社を見る意味を説明する

    理論: 見えているものがすべて(WYSIATI)/外部視点(ロヴァロと共著)/死亡前死因分析の推奨(ゲーリー・クラインの手法)

  • 勝海舟:決裂の手順

    交渉が決裂したときの手順を先に決めていた。その備えは江戸の町を焼くことでもあった

    理論: 会談前の決裂時の備え(日記の記述)と、後年の自己解釈

  • アルフレッド大王:事後から事前へ

    奇襲で国を追われた「事後」の側から、平時に交代と配置を決める「事前」の側へ移った。一人の中にニトリとルネサスの両方がある

    理論: 兵を二班に分け常に半分を家に残す交代制/要塞(バーフ)網

止まったとき、どの得意先を待たせ、どこを最後まで守るか

収束点——主力のプレス機が火災で一台止まった部品メーカーを例に、カーネマンは見えていない危険は一覧に載らないこと、アルフレッドは奇襲で国を追われてから兵を二つに分けたこと、後藤は平時に描いた図面が危機に使えたこと、勝は決裂したときの手順を先に決めていたことを語った。記事の論点に当てはめれば、リスクの特定と同業ベンチマーク/ニトリとルネサスの差/BCPの事前整備/復旧の優先順位にあたる。 言い直し——リスクを知っているとは、一覧に名前があることではなく、それが起きたときに何を手放し、何を最後まで守るかを、平時に決めてあることだった。ルネサスが火災の月のうちに復旧の時期を言えたのも、記事の言う復旧の優先順位が先にあったからだと読める。 手元で試せること——主力の設備が一つ止まったとき、納期を待ってもらう得意先と、最後まで守る得意先を、一行ずつ書いてみる。書けなければ、そのリスクはまだ「知っている」だけで、「決めて」はいない。

学びの読書案内

  • 後藤新平

    平時の都市改造計画(いわゆる8億円計画)を危機の復興計画に転用

    「帝都復興ノ議」(1923年9月)

    著作・資料を探す ↗

  • ダニエル・カーネマン

    見えているものがすべて(WYSIATI)/外部視点(ロヴァロと共著)/死亡前死因分析の推奨(ゲーリー・クラインの手法)

    『ファスト&スロー』(Thinking, Fast and Slow, 2011)

    著作・資料を探す ↗

  • 勝海舟

    会談前の決裂時の備え(日記の記述)と、後年の自己解釈

    『海舟日記』

    著作・資料を探す ↗

  • アルフレッド大王

    兵を二班に分け常に半分を家に残す交代制/要塞(バーフ)網

    アングロサクソン年代記(同時代の記録)

    著作・資料を探す ↗

発言の背景にある出来事

  • 後藤新平

    「閣議へ「帝都復興ノ議」を出しました」

    震災5日後の「帝都復興ノ議」

    1923年9月1日の関東大震災の翌日に内務大臣となった後藤は、9月6日の閣議に「帝都復興ノ議」を提出し、9月27日に帝都復興院が置かれた。下敷きは、東京市長だった1921年に示した、街路・下水・公園など16項目の改造計画(いわゆる8億円計画)である。これは震災に備えた計画ではなく平時の改造案だった。予算は最初の内務省案の約40億円から、議会を通った約4億7千万円まで削られた。

    ↑ 本文の発言に戻るWikipedia「帝都復興院」 ↗

  • 勝海舟

    「西郷と会ったのは三月の十三日と十四日で」

    江戸開城の会談と、決裂時の備え

    1868年3月13日と14日、勝は薩摩藩邸で西郷隆盛と会談した。初日は結論が出ず、翌日に持ち越された。会談に先立って山岡鉄舟が駿府で下交渉をしている。会談の3日前の『海舟日記』3月10日条には、願いが聞き入れられず攻撃が進むなら市街を焼いて進軍を妨げるほかない、という趣旨の判断が書かれている(本文の文言は刊本と未照合)。火消の頭や博徒の長らと密約したという話は、後年の自著『解難録』による。

    ↑ 本文の発言に戻るWikipedia「江戸開城」 ↗

  • アルフレッド大王

    「チッペナムにいたところをデーン人に急襲され」

    チッペナムの奇襲と、二班交代制

    878年1月、真冬の祝祭の時期に、チッペナムにいたアルフレッドはデーン人の軍に急襲され、沼沢地のアセルニーへ逃れた。同じ年のうちに立て直し、エディントンで勝った。その後、兵を二つに分けて常に半分は家に、半分は出陣させる交代制をとったことが、アングロサクソン年代記の893年条に記されている(年代記の地の文で、王の言葉ではない)。「焦がしたケーキ」の話は後世の伝承である。

    ↑ 本文の発言に戻るWikipedia「アルフレッド大王」 ↗

本連載は、各氏の原著・公開されている理論解説に基づき、現代の経営課題に合わせて再構成した架空の対談コンテンツです。発言はGROWTH INTELLIGENCE編集部による創作を含みます。

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