
「CO₂」だけではもう足りない—SBTN認証が示す自然資本経営への転換—CFO・CPO・CSO三位一体の規制対応戦略
2026.07.28更新 2026.07.30GROWTH INTELLIGENCE 編集部
1|結論—今すぐ取るべき経営判旗
従来の気候対応(SBTi)は温室効果ガス(GHG)に限定されており、水資源・土地利用・生物多様性を含む自然資本全体を扱うには限界があります。SBTN(Science Based Targets Network)はこの空白を埋める「次なる国際的基準」として急速に台頭しており、2024年にKering・GSK・Holcimが世界初の検証済み企業として誕生、2026年には淡水V2.0・土地V2.0のローンチで対象領域が劇的に拡大します。さらにSBTNはCSOのコストセンター課題からCFOの価値創造ツールへと変化しており、「SBTN目標の達成度」をKPIとするサステナビリティ・リンク・ローン(SLL)が資金調達コストを直接左右する時代が到来しています。SBTi(気候)・SBTN(自然)・TNFD/CSRD(開示)は、もはや個別選択ではなく次世代の企業価値を測る『統合された一つのダッシュボード』です。近年、企業を取り巻く環境課題は気候変動だけにとどまらず、水資源の枯渇・土地利用の変化・生物多様性の損失といった自然資本リスクへと拡大しています。
2|なぜ今 SBTNなのか—SBTiの限界と国際潮流の収束
従来は気候変動への対応を中心に科学的根拠に基づく目標設定が求められ、SBTi(Science Based Targets initiative)がその役割を担ってきました。しかしSBTiは企業の削減目標の対象領域・算定基準・検証フレームワークが温室効果ガス(GHG)に限定されているため、森林・水・生物多様性などを含む自然資本全体を包括的に扱うには限界があります。特に多国籍企業にとっては、サプライチェーンの上流に位置する調達地域の自然資本の持続可能性を適切に把握・管理しなければ、事業継続に重大な中長期リスクを抱える状況にあります。国際潮流としても、COP15での「昆明・モントリオール生物多様性枠組(GBF)」採択、投資家による自然関連財務情報の要求、TNFD(自然関連財務情報開示タスクフォース)によるフレームワーク整備などが進展しており、自然資本への対応は多国籍企業にとって避けられない課題となっています。SBTNはこうした国際的な流れを背景に創設され、TNFDやCSRD(企業サステナビリティ報告指令)といった国際フレームワークと密接に関連し、目標設定部分を担う仕組みとして位置づけられています。3|SBTNの制度設計と運用プロセス
SBTNは次の5ステップアプローチを基本にしています。
①Assess(評価):自社の自然資本への依存と影響を評価する
②Prioritize(優先順位付け):リスクが大きい事業領域や地域を特定する
③Set Targets(目標設定):科学的根拠に基づき具体的な目標を設定する
④Act(行動):社内外の施策に落とし込み改善を進める
⑤Track(追跡):進捗をモニタリングし外部へ透明性をもって報告する
認証プロセスでは企業が設定した目標について外部レビューが行われ、フィードバックを経て最終的に認証が付与されます。
実務上の課題として、サプライチェーンを含めた境界設定の複雑さ・生物多様性や水資源の定量評価に必要なデータ不足・部門横断的な対応を要するための社内調整コストといった点が、多くの企業が直面する共通課題となっています。
4|2026年の転換点—V2.0ガイダンスとネイチャーテック
2026年は、SBTNの対象とする領域が劇的に拡大する転換点になると予想されています。淡水V2.0(2026年ローンチ予定)では、現在のV1.1(取水量・N/P汚染)の範囲を大幅に超え、新たに「地下水の持続可能な利用」と「有毒な化学物質による汚染」がターゲットとして追加される予定です。これにより化学・アパレル・ハイテク製造業など、水「使用量」は少なくても「汚染」負荷が懸念されていた業種が、SBTNの対象に明確に入ってきます。土地V2.0(同じく2026年ローンチ予定)では新たに「土壌の健全性」が重要な要素として組み込まれる見込みで、SBTiのFLAGセクターガイダンスとの整合性がさらに強化されます。SBTN導入における最大の障壁は、特に生物多様性やサプライチェーン上流における「データの欠如」です。この課題を解決するため「ネイチャーテック」が急速に台頭しています。英国のNatureMetricsのようなスタートアップは、採取した水や土壌のサンプルから生物種のDNAを網羅的に解析するeDNA(環境DNA)技術を商用化しており、AIを用いて衛星画像や生物の鳴き声(バイオアコースティクス)を解析し土地利用の変化や種の分布をリアルタイムで監視する技術も進展しています。これらのテクノロジーは、SBTNが要求する「科学的根拠に基づく追跡(Track)」を可能にするための不可欠なインフラとなりつつあります。SBTNの将来的な普及を決定づける最大の要因は金融市場との統合です。TNFDの2025年ステータスレポートが示すように投資家・金融機関は企業に自然関連リスクの開示と具体的な行動を強く求めており、「SBTN目標の達成度」をKPIに組み込んだサステナビリティ・リンク・ローン(SLL)やサステナビリティ・リンク・ボンド(SLB)が主流になりつつあります。オランダのINGは既に製紙会社に森林破壊削減を条件とした「グリーンローン」を実行しており、SBTN認証取得が資金調達コスト(金利)を直接的に引き下げる要因となる時代が到来すると予測されます。
5|先行企業に学ぶ戦略的対応—Kering・Holcim・GSK・Nestlé
戦略1:経営層の「ゴールデン・トライアングル」構築
SBTN対応はサステナビリティ部門単独のミッションでは決して完遂できません。それは経営の中核機能を変革する「トランスフォーメーション」であり、Cレベルの経営陣による「ゴールデン・トライアングル(黄金の三角形)」の連携が不可欠です。
Keringが活用した「環境損益計算(EP&L)」は、自然資本への影響(CSOの領域)を金銭的価値(CFOの領域)に換算する経営統合の象徴的なツールです。GSKが2024年に淡水、2025年に土地とSBTNの厳格な検証を段階的に完了できた背景には、サステナビリティ部門による科学的アプローチの推進と、それを支える経営層の強固なコミットメントが存在します。
戦略2:データインフラ(GIS・トレーサビリティ)への戦略的投資
SBTN対応は本質的に「データ」との戦いです。Holcimは WRIのAqueductやIBATといったGISツールを駆使し、自社の影響が最も深刻なメキシコの「モクテスマ川流域」を特定しました。GSKも自社の水リスクが最も高い「インドのゴダヴァリ流域」を特定し、水使用量削減と自然再生を組み合わせた目標を設定しています。一方、トレーサビリティの課題はKeringやNestléのような複雑なサプライチェーンを持つ企業にとって最大の難関です。Nestléは2025年までにココアのような主要原料で100%のトレーサビリティ達成を目標に掲げ、LandGriffonのような先進的なデータプラットフォームを活用してサプライチェーンの環境フットプリントをマッピングする試みを続けています。NestléのSBTNへの道のりは、まさに「トレーサビリティ基盤の構築」そのものです。戦略3:SBTNの「枠組み」の限界とローカルな適応
SBTNは科学的根拠に基づく枠組みですが万能ではなく、業種や地域の特性に応じた適応が求められます。Holcimのような採掘業にとっては、淡水(水質)目標が焦点を当てる窒素・リン汚染より重金属や全浮遊物質(TSS)の方がより重要であり、「土地転換ゼロ」目標も新たな採掘を必要とする同社にとっては現実的でない側面があり、SBTN側が2030年までの代替経路を導入するきっかけとなりました。 GSKが2024年に承認された淡水目標は全世界一律の削減ではなく、「インドのゴダヴァリ流域」という特定の水ストレス地域における「淡水正味取水量の100%削減(ウォーター・ニュートラルの達成)」です。自社工場の水使用量削減(回避・削減)だけでなく、地域の自然再生を通じた水涵養(再生・回復)、「地域ステークホルダーとの共有水課題の解決」(変革)を組み合わせた、極めて「場所固有」かつ統合的なアプローチとなっています。6|SBTN対応の落とし穴—経営者が降りやすい典型的誤解
誤解① 「SBTiに対応していればSBTNも自動的にカバーできる」という混同 SBTiは温室効果ガス(GHG)に限定された枠組みであり、水資源・土地利用・生物多様性を含む自然資本全体を扱うことはできません。2026年のV2.0で対象がさらに拡大すれば、水「使用量」は少なくても「汚染」負荷が懸念される化学・アパレル・ハイテク製造業もSBTNの対象に明確に入ってきます。気候対応と自然資本対応は別の科学的枠組みとして並行して取り組む必要があります。誤解② 「SBTN対応はサステナビリティ部門だけの課題」という分業の誤り SBTN対応はサステナビリティ部門単独のミッションでは決して完遂できません。CFOによるTNFD開示・投資家対話・サステナビリティ・リンク・ファイナンスの実行、CPOによるサプライチェーン・トレーサビリティの確保、CSOによる科学的データの収集・検証プロセス主導という「ゴールデン・トライアングル」の三位一体の連携が不可欠です。
誤解③ 「世界共通の目標を一律に適用すればよい」という画一的理解 HolcimとGSKの事例が示すように、SBTNのグローバルな枠組みは業種や地域の特性に応じたローカルな適応が必要です。GSKの淡水目標が「インドのゴダヴァリ流域」という特定の水ストレス地域に焦点を当てているように、自社の事業特性と地域の現実に合わせた「場所固有」のアプローチが求められます。
誤解④ 「データが不足しているから着手できない」という思考停止 SBTN導入における最大の障壁は生物多様性やサプライチェーン上流におけるデータの欠如ですが、これは「対応しない理由」ではなく「ネイチャーテックで解決すべき課題」です。eDNA技術やAI・リモートセンシングといった技術が急速に台頭しており、データギャップを埋めるインフラとして活用できる段階に来ています。
7|実行のポイント—SBTN対応の4ステップ
STEP 1 CFO・CPO・CSOの三位一体体制を構築する
Keringの「ゴールデン・トライアングル」が示すように、SBTN対応をサステナビリティ部門単独の課題として位置づけず、CFO(資金調達・投資家対話)・CPO(調達戦略・トレーサビリティ)・CSO(科学的データ収集・検証)の経営層連携を最初に構築してください。経営の中核機能を変革する「トランスフォーメーション」として捉えることが起点です。STEP 2 GISツールで自社のリスク集中地点を特定する
HolcimやGSKのようにWRIのAqueductやIBATといったGISツールを活用し、自社のサプライチェーンが「地球上のどこに」存在し「どの生態系に」影響を与えているかを地図上で特定してください。全社一律の取り組みではなく、リスクが最も深刻な特定流域・地域を優先的に特定することがSBTNステップ1・2の実務的な出発点です。STEP 3 トレーサビリティ基盤とネイチャーテックに投資する
SBTNの土地V2.0パイロットでは原材料の調達元を「生産ユニットの原産地(農場レベル)」まで追跡できる企業が優先されます。Nestléのようにデータプラットフォームを活用したトレーサビリティ構築と、eDNAやAI・リモートセンシングといったネイチャーテックでデータギャップを埋める投資を並行して進めてください。STEP 4 グローバル枠組みを自社事業・地域の現実に適応させる
Holcimが採掘業特有の汚染物質(重金属・TSS)に応じた代替経路をSBTNに認めさせたように、グローバルな科学的枠組みと自社事業の特性との「ズレ」を特定し、ZDHCなど業界固有のイニシアチブとの連携も含めて「実践的な知恵」として適応させてください。8|経営判旗チェックリスト—SBTN対応を優先すべき企業の条件
✓ 多国籍展開しており、サプライチェーン上流の自然資本リスク(水・土地・生物多様性)が経営に影響し得る ✓ SBTi(気候)には対応済みだが、SBTN(自然資本)への取り組みは未着手・検討段階である ✓ 投資家・金融機関からTNFD開示や自然関連リスクへの対応を求められ始めている ✓ サプライチェーンのトレーサビリティ・地理空間データの基盤が整備できていない ✓ サステナビリティ対応が部門単独のミッションにとどまり、CFO・CPOを巻き込めていない自然資本をめぐる国際的な潮流は、これまでの気候変動中心の枠組みから、より包括的な「気候・自然・社会の統合管理」へと明確に進化しました。2025年はSBTNが「理論」から「実践」へと移行した決定的な年として記憶されるでしょう。2026年には化学物質・地下水・土壌へと対象が拡大され、その影響範囲は全産業に及びます。SBTi(気候)、SBTN(自然)、TNFD/CSRD(開示)は個別に選択するものではなく、次世代の企業価値を測るための「統合された一つのダッシュボード」であり、CFO・CPO・CSOが三位一体で取り組むべき全社的な経営戦略そのものです。